アスベスト(石綿)肺がん・中皮腫などの裁判等の賠償・補償・給付の相談と検討

更新日 : 2020年11月6日

公開日:2019年1月1日

中皮腫などのアスベスト(石綿)による健康被害にあわれた方の多くは、労災制度救済制度による認定をされて給付を受けることになります。労災制度は「無過失責任」に基づく制度ですので、使用者(会社・企業)の過失の有無とは無関係に、一定範囲の損害を補償するものです。しかし、救済制度はもちろん、労災制度による給付はアスベスト疾患を発症したことで発生した治療費・休業損害・逸失利益・慰謝料の全てが補填されるわけではありません。そのような損害を企業や国に請求することができます。

また、労災認定そのものが支給されず、これまでに中皮腫被害に関する行政訴訟石綿肺がんに関する行政訴訟の事例もあります。また、非労働者の国の責任を争った国家賠償訴訟もあります。

中皮腫・アスベスト疾患の賠償・補償・給付と相談

いわゆる「裁判」だけが賠償を得る方法でもありませんし、「弁護士」だけがその窓口ではありません。昨今では、これまでにアスベスト被害関連の訴訟にほとんど関わったことがないと思われる弁護士や弁護士事務所も出てきていますが、まだまだアスベスト被害をめぐる賠償問題では「弁護士なら誰でも良い」という状況にはなく、注意が必要です。「最大〇〇円の給付が受けられます」というような広告が散見されますが、現状、そのような単純な整理はできません。アスベスト以外の問題でも、判決の獲得に一切関与していない弁護士や弁護士事務所が宣伝活動を通じて依頼を受けている例もありますが、このような事務所の中には破産した事務所や東京弁護士会から業務停止処分を受けた事務所もあります。場合によっては、「本来的にもっと多くの賠償金が得られていたのに!」という方々が出てくる可能性があります。それでは、どのような「入り口」があるのか、ご紹介したいと思います。

アスベストユニオン(労働組合)に加入して「交渉」で解決

アスベストユニオンという、私たちと連携している労働組合では、会社に団体交渉を申し入れて話し合いによる早期の解決を目指しています。団体交渉については憲法第28条で権利を保証され、労働組合法第6条で権限を担保されています。仮に、会社(使用者)が正当な理由なく、団体交渉権を拒否した場合は「不当労働行為」として、都道府県に置かれている労働委員会へ救済を申し立てることができます。ユニオンは10年以上の活動実績があり、経験も豊富にあります。

最高裁弁論経験など「実績のある」弁護士に依頼して訴訟などで解決

会社との交渉や、賠償を裁判を弁護士に依頼する形もあります。「弁護士」と言っても、これまでのアスベスト訴訟に取り組んできた経験(証拠収集能力など)や実績(勝訴した判決や同等の和解)、私たちのようなピア・サポート活動をする当事者団体への理解や貢献(寄付による金銭的サポート含む)などについては大きな違いがあります。

中皮腫をはじめとするアスベスト疾患は、「人の命や健康に関わる問題」です。力量が伴うと同時に営利に主眼を置かずに患者さんや家族に寄り添える弁護士は決して少なくありません。確かな判決を獲得してきた弁護士や弁護団があります。アスベスト被害者と家族の救済のために判例をつくるために尽力してきたのか、単に他の弁護士や弁護団の判例をテコに事業のために「依頼者」を集めているのか、その見極めが重要となります。

見極めとして、一つの大きな指標は、「アスベスト裁判において最高裁判所で弁論をしたことがあるか」だと考えます。これまで、アスベスト裁判で最高裁で弁論し、重要な判決を得ている弁護団は関西アスベスト訴訟関西弁護団(近鉄高架下建物アスベスト事件)、大阪アスベスト弁護団(泉南アスベスト国賠訴訟)です。また、最高裁での弁論の経験がなくとも、建設アスベスト訴訟に関わっている弁護団や弁護士もいますので、このような取り組みを「現にしている」かが大切です。

アスベスト給付金の金額などを安易に示している広告には注意

被害者のばく露形態やばく露時期、各個人の被害状況などによって企業や国からの賠償額は変わってきます。国が、肺がん被害者に対する不当な遅延損害金の計算方法で和解を進めてきた実態(この問題は、一部の被害者が適正な損害発生日を起算点とすることを求めて争い勝訴)などに象徴されるように、部分的に整理がついていない課題がまだまだあります。

たしかに、司法判断によって損害額に対する水準は一定の目安が示されているものもありますが、簡単に整理できない方もいます。「目先の利益」で安易に解決を図ることが、結果的にマイナスを生んでしまうこともあります。

中皮腫・アスベスト裁判での賠償・補償例

現在、一部の被害者の方については国との和解の可能性が示されています。このような中皮腫をはじめとする被害者の方々がおかれている環境になった背景には、以下に記載したような裁判の歴史があり、それが他の被害者の救済に結びついてきたと言えます。

アスベスト(石綿)被害で最初の企業・国家賠償請求

アスベスト被害に関しては、古くは1977年にアスベスト製品製造業に従事していた労働者や遺族が、使用者である長野市にある平和石綿や親会社の朝日石綿工業、そして規制権限の適切な行使を怠ったとして国も被告にした、いわゆる「長野じん肺訴訟」があります。結果的に、この裁判では企業2社の責任が認められる形で1986年に終結しました。

造船労働者のアスベスト(石綿)被害での住友重機工業への賠償請求

1988年には、石綿肺に罹患した元造船労働者たちが住友重機械工業を相手に提訴しました。この訴訟は1997年に和解が成立しました。同社との関係では石綿肺がんに関する訴訟も提訴されていましたが、この和解から半年後に会社が被害者に弔意を表明する形で和解解決しました。

中皮腫を罹患したボイラーマンの被害に対する雇用主のホテルへのアスベスト(石綿)賠償請求

2008年には札幌高裁で、ホテルの従業員としてボイラーの運転や保守の業務に従事していた男性が悪性胸膜中皮腫で死亡した被害において、使用者であったホテルが石綿(アスベスト)の吸引防止等の安全配慮義務を怠ったとして遺族が訴えを起こしていた裁判で、一審の札幌地裁判決を取り消して、原告の逆転勝訴判決を出しました。この判決では、これ以後のアスベスト訴訟においても被害者側から主張される被害の予見可能性について次のような主張がされています。

・石綿による健康障害として石綿肺が発症することは、欧米では1930 年(昭和5年)ころには疫学的にも病理学的にも論証されており、1935年(昭和10年)のlynchによる石綿肺合併肺がんの報告、1953年(昭和28年)のweissによる胸膜中皮腫及び1954年(昭和 29年)のleichnerの胸膜中皮腫の石綿肺合併の最初の報告以来、 石綿粉じんと肺がん、慢性悪性中皮腫の関係については、諸外国の疫学調査からほぼ疑う余地のないものとなった。 石綿の発がん性については、1964年(昭和39年)ニューヨーク化学アカデミー主催の国際会議で各国からその事実が報告され、1972年 (昭和47年)iarc(international agency for research on cance r:国際ガン研究機関)が石綿の生体影響に関する国際会議を開催し、石綿の発がん性に関する報告書が発刊され、1975年(昭和50年)には欧州共同体が「石綿ばく露による公衆衛生上のリスク」に関する専門家会議を開催するなどの経過をたどった。

・我が国でも、昭和12年から昭和15年にかけて石綿作業従事者の石綿肺の調査が行われ、大阪及び近郊の多数の石綿紡織従事者が石綿肺と結核の危険にさらされている現状に対し、速やかに予防と治療の適切なる対策 樹立が必要であることが示された。 その後、石綿関連従事者に対する検診や剖検等により、その病理が次第に明らかにされていき、以下のような行政措置が取られた。

a 昭和35年3月31日にじん肺法が公布され、同年4月1日に施行され、「石綿をときほぐし、合剤し、紡績し、紡織し、吹き付けし、積み込み、 若しくは積み卸し、又は石綿製品を積層し、縫い合わせ、切断し、研まし、 仕上げし、若しくは包装する場所における作業」が同法の適用を受ける粉じん作業に含まれるようになった。 

b 昭和46年4月28日に公布された特定化学物質等障害予防規則(以下 「特化則」という。)では、石綿は第二類物質(通常の作業時における継 続的又は繰り返しの暴露による慢性的な障害を起こし、又は起こす恐れの大きいもの)に分類され、また、昭和47年6月8日に公布された労働安全衛生法では、石綿(石綿を含有する製剤その他の物を含む。ただし、石綿の含有量が重量の5パーセント以下のものを除く。)を容器に入れ、又は包装して譲渡し、又は提供する者は、その容器又は包装に、名称、成分 及びその含有量、人体に及ぼす作用、貯蔵又は取扱上の注意、表示をする者の氏名(法人の場合は、その名称)及び住所を表示するか、表示事項を記載した文書を相手方に交付しなければならないと規定された。

c 昭和47年9月30日に公布された全面改正後の特化則では、石綿の粉じんが発散する屋内作業場では換気や除じん、石綿等の空気中濃度の測定、 定期健康診断等が定められ、さらに昭和50年9月の特化則の改正では、 石綿等を取り扱う作業場内での喫煙や飲食の禁止、石綿等を吹き付ける作 業に原則として労働者を従事させてはならないこと、石綿等の切断の作業、 石綿等を張り付けた物の解体等の作業等に労働者を従事させるときは、石綿等を湿潤な状態のものとしなければならないことなどが規定された。

出典:裁判所 裁判例情報 事件番号:平成19(ネ)99

旧国鉄労働者のアスベスト(石綿)被害の損害賠償

この札幌高裁の判決が出される前年の2007年1月には、旧国鉄大船工場で電車等の修理・改造作業に従事して、中皮腫を発症して死亡した男性の遺族が、旧国鉄の地位を継承した独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(国鉄清算事業本部)に対して損害賠償請求をしていました。この訴えは、JR・旧国鉄、民間の鉄道会社を通じてはじめてのアスベスト裁判でした。この裁判は、2008年12月25日に横浜地裁で和解が成立しています。和解の翌年2009年4月には鉄道運輸機構が「遺族補償一時金」を新設しています。

アスベスト(石綿)含有建物所有者・占有者の責任認定

2014年2月27日、大阪高裁は日本鉄道株式会社に対し、損害賠償を命じる判決を出しています。これは2013年7月12日に最高裁が「破棄差戻」の判決を経て確定したものです。大阪高裁の判決によって、高架下建物の所有者兼占有者である旧近鉄不動産株式会社の管理責任を認め、同社を承継した近畿日本鉄道株式会社に対し、損害賠償を命じました。この事件は、2001年に胸膜中皮腫を発症し、2004年7月20日に死亡した被害者の遺族が2006年に提訴した裁判でした。

判決確定後の2016年には、近鉄の高架下の喫茶店に勤務していた男性が中皮腫を発症して、2015年に死亡した問題で遺族が近鉄側に賠償を求める裁判が提訴されています。

初の国家責任認定と和解方針 「泉南アスベスト訴訟」

2006年には、小規模・零細企業が密集していた大阪・泉南地域の元労働者や周辺住民等が国を相手に賠償を求める訴えを大阪地裁に起こしました。2014年10月9日には、初めて国の責任を認めた「泉南アスベスト国賠訴訟」の最高裁判決が出されました。その要旨は概ね次のとおりです。

すなわち、労働大臣の旧労働基準法等に基づく規制権限は、粉じん作業等に従事する労働者の労働環境を整備し、その生命、身体に対する危害を防止し、その健康を確保することをその主要な目的として、できる限り速やかに、技術の進歩や最新の医学的知見に適合したものに改正すべく、適時かつ適切に行使されるべきものであり、その不行使により被害を受けたものとの関係において、国家賠償法1条1項の適用上違法となるとしました。そして昭和33年5月26日には省令制定権限を行使し、罰則をもって石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けるべきであったのにこれを怠ったとし、旧特定化学物質等障害予防規則が制定された昭和46年4月28日までの国がその責務を果たしてこなかった、としました。

最高裁判決は、行政の裁量権を広範に認め国の責任を否定した平成23年8月25日の大阪高等裁判所判決(第1陣訴訟)を見直し、石綿工場における局所排気装置の設置の義務づけの懈怠をもって国家賠償法1条1項の適用上違法であると判断して国の規制権限不行使の責任を認めたものの、平成25年12月25日大阪高等裁判所判決(第2陣訴訟)と異なり、防じんマスクの使用義務及び特別安全教育の実施義務については国家賠償法1条1項の適用上違法との判断はしませんでした。

そこで救済の対象者は昭和33年5月26日から昭和46年4月28日まで石綿工場で石綿粉じんに曝露した者で、同期間内に石綿粉じんに曝露したことと石綿関連疾患との間に相当因果関係が認められる者となり、石綿関連疾患に罹患した元従業員らにつき、国が各損害の2分の1を限度として損害賠償を負うとした大阪高裁判決(第2陣)を維持しました。

この判決により昭和33年から昭和46年まで石綿工場で働いて石綿疾患に罹患した被災者は泉南以外の工場で働いていた者にも救済の道が開かれました。

ただし、救済方法は裁判所へ訴訟を提訴したうえで、訴訟上の和解をするという方式になります。損害賠償額は以下の金額の2分の1が基準となります。

  ア 管理2・非合併 1100万円

  イ 管理2・合併 1400万円

  ウ 管理3・非合併 1600万

  エ 管理3・合併 1900万

  オ 管理4、肺がん、中皮腫、びまん性胸膜肥厚 2300万

  カ 石綿肺(管理2・3で非合併)による死亡 2400万円

  キ 石綿肺(管理2・3で合併又は管理4)、肺がん、中皮腫、びまん性胸膜肥厚による死亡 2600万円

建設建設業関連職種のアスベスト(石綿)被害を最高裁が認めた中央電設裁判

電気工として1962年から2006年までの45年間あまりにわたって、中央電設株式会社の専属下請として従事した被災者は2004年に胸膜中皮腫を発症して、2006年に59歳で他界しています。2010年に遺族が、同社を相手に損害賠償請求訴訟を起こしました。2014年2月に大阪地裁で判決が出され、慰謝料を含む約4,936万円の賠償が認められています。また、昭和37年頃には「石綿を含む粉じんが人の生命、身体に重大な障害を与える危険性があることを十分に認識でき、また認識すべきであった」として、少なくとも昭和37年から被災者に対しての安全配慮義務に違反していたと判示しています。

のち、2014年9月の大阪高裁判決、2015年の最高裁の決定によっても原判決の企業責任が維持されています。この裁判は最高裁判所が建築関連作業職種のアスベスト被害に関して企業の加害責任を認めた初めてのものとなりました。

建設アスベスト(石綿)訴訟裁判

建設作業従事者は、毎年のアスベスト労災認定者の半数を占めています。こうした中、アスベスト疾患に苦しむ被災者、遺族が、国、建材メーカーを相手どって、2008年に提訴して以来、全国6地域で起こされている裁判です。原告数は全国で895名(患者単位733名)となっています。

これまでに2012年の東京地裁判決を皮切りに、2019年11月11日の福岡高裁に到るまで11度にわたって判決が出されています。このうち、国は10度の敗訴、建材メーカーの責任は8度の敗訴(判決によって敗訴企業などは異なります)をしています。また、労働関係法令の保護が及ばない「一人親方」も、4つの判決で賠償の対象になるとの判断されています。

国の責任としては、建設現場における危険性につき認識できたにもかかわらず、防じんマスクの着用義務づけ、危険性と対策についての警告表示・掲示の義務づけを怠ってきた責任などが争われています。

建材メーカーの責任をめぐっては、アスベストの危険性を認識しながら、重篤な疾患罹患の危険性とマスク着用が必須であることの警告を発する義務を負っていたのにこれを怠った責任などが争われています。これまでに、ニチアス、ノザワ、エーアンドエーマテリアル、エムエムケイ、神島化学、ケイミューなどの責任が認定されています。

最新の動向は建設アスベスト(石綿)訴訟裁判の動向 中皮腫・アスベスト疾患被災者の補償・救済の賠償(給付)の到達点でも確認してください。

企業内労災上積みアスベスト補償・救済金制度

2005年に、今日のアスベスト被害の実態が衆目にさらされる契機となった、「クボタショック」ですが、その原因企業であるクボタは一定の要件を満たす周辺住民を対象に最大で4600万円を支給する「救済金制度」を設けました。また、自社の従業員だけでなく下請けの従業員に対しても、2500万円から3000万円の補償金制度を設けています。

同様の制度は、日本最古の石綿関連企業である「ニチアス」でも運用されています。しかし、一部の被害者については同社の姿勢に疑問があることや給付金額が不当だとして裁判で賠償を争ってきました。2015年には岐阜地裁で同社の責任が認められています。

このような制度を持つ会社は他にもありますが、前述したように、アスベストユニオン等の労働組合を通じて社内規定以上の補償額を会社が早期に払うことで、解決するようなケースもあります。

また、2012年には港湾業界において港湾石綿被災者救済制度が創設されています。全国港湾と日本港運協会との間でつくられたものです。港湾における石綿作業者の健康管理と石綿疾患罹患者の補償を求めて交渉が開始されました。結果的に、5億円の基金を積立てて、救済制度をつくることで合意されたものです。当初、労働側は労災企業上積み補償協定の締結をめざしていましたが、業界側はあくまでも企業救済制度を主張し、結果的には業界側の主張どおりの企業救済制度になっています。

アスベスト使用に対する規制の変遷

ここまで触れてきた補償をめぐる状況は、歴史的なアスベスト使用と危険性、それを踏まえた規制などの状況から企業や国の責任が問われたものです。大阪・泉南地域の問題を端緒に、その歴史を整理しておきます。

アスベスト(石綿)被害を戦前から確認していた国

泉南地域で石綿紡織業が始まったのは明治時代末期とされています。石綿を原料とした糸や布を生産していたが、戦前・戦後を通じて石綿紡織製品の生産の多くを担っていました。例えば1977年時点においては石綿紡織品の全国シェアの85パーセントを占めていました。戦前は国鉄や海軍へ、戦後は造船や自動車、冷暖房といった空調などの部門へ製品を供給していました。数十人規模の工場が現在の泉南市と阪南市に点在し、経営者の家族も労働者として働く工場が多かった。小零細企業が多かったために、後述するような1970年以降の国の石綿利用における諸規制に対して資金面での対応ができないなどの問題もあり、規制はあるものの実態として法違反が多発していました。

1980年代前半の泉南地域の石綿工場所在図:(出所)大阪労働局保有資料(大開第18-8-衛11号平成21年3月4日),作成日不明.ただし、開示された他の文書から、1980年代前半に作成されたものと類推される。大阪アスベスト弁護団より提供。

すでに、1930年代後半には国によって被害が確認されており、戦後も事実上、それを引き継ぐ形での調査が労働省の委託研究などで取り組まれ、研究者たちによって被害が確認されていました。それらの調査を受けて、早くは1950年代後半に健康被害に関する報道がされていました。日本国内における石綿の発がん性も含めた健康への影響に関する情報の蓄積は泉南地域の実態から得られたものが多くありました。

それより少し前、諸外国に目を向けると英国では1800年代末から工場監督官が石綿紡織工場の粉じんによる健康被害の実態調査を求める意見を出し、1906年には同国の議会で医師によって石綿疾患の症例が報告されています。被害の増加を受けて、1928年には英国政府が工場医療監督官と技術監督官にアスベスト紡織工場の調査を命じています。調査は石綿以外の粉じんへばく露した者を除く363名の労働者を対象におこなわれましたが、1930年に発表された報告では、20年以上の勤続年数にある者の8割が石綿疾患に罹患していました。それを受けて英国政府は「アスベスト産業規則(The Asbestos Industry Regulations)」を制定し、粉じん抑制措置を工場に義務付けまし。また健康診断の実施、労災補償に古典的な石綿疾患である「石綿肺」が加えられるなどがなされました。これら法制度に対して問題が指摘されなかったわけではありませんが、規制や補償の枠組みを構築した世界的な先進事例でした。

あるいはドイツにおいては、1914年に最初の石綿疾患が報告され、その後も疾患の知見が積み上げられていきました。そのような中、1936年には「第3次職業病法」の改正によって石綿疾患が職業病として認定されることとなり、日本国内では1927年に最初の石綿疾患の報告がされ、それが10年後の保険院の調査につながりました。

アスベスト(石綿)被害における戦後の被害状況と国の規制

戦後、1953年に奈良県立医科大学の宝来善次や瀬良好澄による奈良での調査研究を経て、1955年に労働省は労働衛生試験研究「石綿肺の診断基準に関する研究」に取り組む共同研究班を組織しました。泉南地域では前年から、瀬良が院長を務める国立療養所大阪厚生園が近隣の石綿工場の労働者に対する検診を実施していましたが、研究班が組織されたことで泉南地域全域と地域外の府内2工場を含める調査に着手しました。1957年までに全32工場、814名を対象として調査が実施され、58年3月31日に取りまとめられました。10パーセント以上に石綿疾患が確認され、戦前の調査同様に勤続年数に比例して罹患率が増加し、20年以上の者は100パーセントでした。さらに1969年には大阪労働基準局が泉南地域の44の石綿事業場の実態調査と監督を実施しています。

1970年代前半には日本で初めて石綿を原因とした肺がん罹患・死亡者に関する報道があり、それ以降、泉南地域の石綿業者だけでなく、日本の石綿製品製造業界をあげて発がん性否定の主張とその後の「管理使用」の転換へと繋がっていきます。国の規制も70年代以降、発がん性を意識したものへとシフトしていきました。

石綿と発がん性に関する報告は英国で1930年代から始まりました。当時はじん肺症の一種である石綿肺の患者に、肺がんが合併(以下、石綿肺合併肺がん)していることが着目されました。他方、ドイツでも同時期に石綿と肺がんの関係について注目され、1937年から40年にかけての労働省における調査を受けて、発がん物質として規制対象とされました。43年には石綿肺合併を労災補償の対象としています。もう一つの代表的な石綿関連疾患である中皮腫についても、これより少し前、1917年には症例が報告され、43年には石綿との関連性を指摘する報告も出てきています。

米国ニューヨーク州北部に位置し、職業性肺疾患の研究などに取り組んでいたサラナク研究所主催のじん肺症に関するシンポジウムが1952年に開催されました。医学・科学者、行政の公衆衛生担当者、保険会社や石綿製品製造業者など200名が参加した会議でした。

そこで英国の工場医療監督官によって同国の石綿肺による死亡統計が報告されています。総数306名のうち、肺がん以外のがん併発者を除いた296名中48人(16.2パーセント)に肺がんが併発していると報告されました。1955年には、英国の医師によって産業医学雑誌に1935年以降の検死官の病理記録をもとにした石綿工場における105名の死因を分析した報告が出されています。そこでは、肺がんによる死亡者が18人(15名は石綿肺合併肺がん)にのぼり、20年以上勤続の男性労働者はリスクが10倍になっており、肺がんは石綿関連作業にも発生する職業疾患であると結論付けています。

中皮腫についても、1960年に英国の産業医学雑誌で発表された医師たちの報告で石綿との関連性が決定的なものとなっています。その報告は南アフリカの石綿鉱山周辺で居住経験のある33名の症例を検討したものでした。

1964年10月にはNew York Academy of Science主催でアスベストを主題とした初めての国際学会であるBiological Effects of Asbestosが開催され、それまでに蓄積されていたアスベストばく露と発がん性に関する調査研究の更新や新たな疫学調査の結果が示されました。また、Union Internationalis Contra Cancrumが前年にアスベスト関連のがんに関する国際研究の可能性を検討するplanning Groupを組織していましたが、そこでの活動が母体となってWorking Group会議が月を同じくして開催されました。その後、1972年にはWHOの下部機関であるIARCによるIARC Working Conferenceなども開催されています。

発がん性に関わる問題の日本国内における知見としては、石綿肺合併肺がんが1960年、同じく中皮腫が1973年に報告されていますが、それらが国内では最初のものとされています。次節で触れる1970年の発がん性報道を契機として、石綿の有害性の認識は一般の人々にもわずかに広がっていくこととなりました。

アスベスト(石綿)被害の社会問題化ー学校パニックー

1980年代後半には横須賀米軍基地の敷地外への石綿廃棄物不法投棄問題や学校アスベストパニックが社会問題となりました。そのような社会的な石綿問題への高まりも受けて、同時期に泉南地域で一部の弁護士らによる調査がなされましたが、被害実態については十分な把握がされませんでした。

また、その流れの中で89年には大気汚染防止法改正による石綿関連工場の工場外への排出規制、91年には廃棄物処理法改正によって廃棄物の対象として石綿製品を取り扱うための処理基準などが定められました。

しかし時期を同じくして、このような対処療法的なものとは異なる新たな動きが生まれていました。1987年に労働組合や市民団体、個人などで結成された石綿対策全国連絡会議が1994年までの原則使用禁止や2000年までの完全禁止を掲げた「アスベスト対策の政策提言―アスベスト規制法(仮称)制定に向けて―」を発表します。同団体はその後、集会などを重ね、1991年4月にはその提言を社会党が法律案としてまとめるまでに至りました。これに対して日本石綿協会は、「石綿協会のポジション・ステートメント」を発表し、自主規制の強化による石綿製品の代替化の方針を示して管理使用の推進を主張しました。

1991年11月16日には第3回日本石綿シンポジウムが開催され、規制推進派と反対派の議論が交わされましたが、そこに参加した医師の姜健栄氏は「石綿使用推進派の方たちが組織的にも資金面でもしっかりしているようで反対派を威圧していた。一方、反対派は組織力、経済力の差によってか、押され気味のようであった」と振り返っています。

1992年12月には社会党が社会民主連合との共同提案で、石綿の全面的な使用禁止などを含んだ「石綿の規制等に関する法律案要綱(案)」を議員立法で衆議院に提出するも、業界団体や当時の与党であった自由民主党の反対に合って廃案となりました。ただ、使用禁止の是非をめぐる攻防は日本に例外的にあったわけではありません。例えば1989年に米国では、環境保護庁が1996年までの段階的な使用禁止規則を制定しましたが、同国やカナダの業界団体が起こした訴えに対して91年10月に第5巡回連邦高等裁判所が規則策定手続上の不備を理由として同規則の無効を言い渡す判決を下しています。

一方で、1983年にはアイスランド、84年にノルウェー、86年のデンマークやスウェーデン、88年のハンガリーと使用禁止をしてきました。欧州経済共同体では1991年に石綿を人に対して発がん性のある物質として位置づけ、部分的な石綿使用禁止を促進しました。1990年のオーストラリアから1年ごとにオランダ、イタリア、ドイツと続き、94年には欧州連合に加盟している8カ国で禁止を導入しています。さらにフランスでは96年に使用禁止を打ち出し、97年には禁止措置が施行されました。98年にはベルギーもそれらの流れに続いた。日本では2006年に石綿含有製品等の製造・輸入・譲渡・提供・使用を禁止しています。

アスベスト(石綿)被害の社会問題化第2期ークボタショックー

ただ、使用禁止と言っても例外付きがあるなど、一面的な評価を安易に下すことはできません。しかし日本は、80年代に入って使用禁止を図っていった欧米諸国の動向に比例する形で一時的に消費量が減少していましたが、80年代後半になって70年代前半のピーク時に迫る勢いで消費を盛り返していった傾向は先進諸国の中では特異と言えます。なお、日本では例外の一切ない使用禁止は2012年になってからでした。使用段階での個別規制では日本と先進諸外国では10年以上の開きがあると指摘されます。泉南地域では日本で最も古くから石綿による健康被害が確認されていながら、その告発が社会に広く行き渡ったのはクボタショックの余波を受けた2005年になってからでした。しかし、その当時はほとんどの石綿工場は廃業・転業していました。

参考

・1986年7月11日「朝日石綿と和解 長野じん肺訴訟 賠償1億8千万円で」『毎日新聞』

全国公害弁護団連絡会議 住友石綿じん肺第二次訴訟造船所でのアスベスト

裁判所 裁判例情報 事件番号:平成19(ネ)99

「旧国鉄アスベスト損害賠償裁判提訴! 10万人の元労働者への注意を喚起」『関西労災職業病』第367号

・2016年5月25日「石綿死 近鉄に賠償求める 高架下喫茶店 23年勤務の店長遺族」『読売新聞』

「近鉄に損害賠償求め提訴 近鉄下店舗倉庫の吹きつけアスベストで中皮腫 吹きつけ原因被害への大きな警鐘」『関西労災職業病』第360号

NPO法人 ひょうご 労働安全衛生センター 旧国鉄アスベスト被害者に対する補償制度新設へ

・伊藤彰信「労働組合のアスベスト問題への取り組みと課題(特集:アスベスト問題は終わっていない)」『労働の科学』第70巻9号

クボタ 「旧神崎工場周辺の石綿疾病患者並びにご家族の皆様に対する救済金支払い規程」
の骨子について=石綿健康被害への新たな対応として=

・1977年11月25日、「泉南地区の石綿紡織品業界=日本石綿紡織工業会首脳部と懇談=」『せきめん』383号

・1980年8月25日、「私の石綿製品 石綿紡織品」『せきめん』416号

・1977年2月25日、「泉南業者陳情に対する労働省安生ママ衛生部長の回答」『石綿』374号

・1977年2月25日、「泉南業者陳情に対する労働省安生ママ衛生部長の回答」『石綿』374号

・姜健栄、2006年、『アスベスト公害と発癌性』朱鳥社:99-109

・1959年10月28日、「石綿肺で夫婦共倒れ 零細企業の悲しさ予防もままならず」『産業経済新聞』

・1958年12月21日、「職業病 石綿肺 25工場で19%かかる 岸和田労基署 設備改善へ乗り出す」『朝日新聞』

・1970年11月17日、「石綿粉じん肺ガン生む 8人発病、6人死ぬ 瀬良近畿中央病院長 日本で初めて確認」『朝日新聞』

・アスベスト被害尼崎集会実行委員会編、2007、『アスベストショック―クボタショックから2年』アットワークス

・2005年9月24日、「石綿工場、120年の歴史に終止符 大阪・泉南で」『朝日新聞』