講演動画『腹膜中皮腫闘病15年 南の島・沖縄から 絶望から希望へ』(鹿川真弓さん)

講演『腹膜中皮腫闘病15年 南の島・沖縄から 絶望から希望へ』(鹿川真弓さん) 中皮腫サポートキャラバン隊in沖縄 日にち:2020年1月25日 会場:沖縄県青年会館 協力:アスベストユニオン

沖縄県で中皮腫患者として生活

みなさん、こんにちは。私は沖縄県石垣島出身の鹿川と申します。今は保育士として働いています。普段は子供たちの前で話すことが多いのですが、こういった、大人の方たちの前で話す機会がまったくないので、かなり緊張しています。拙い点があると思いますが、最期までよろしくお願いいたします。座らせていただきます。

自己紹介として、私、鹿川真弓、石垣島出身で沖縄在住の、浦添市に今現在住んでいます。現在、保育士として日々がんばっています。

私は2歳まで、築30年ぐらいの一戸建ての平屋に家族と一緒に住んでました。両親が共働きだったため、0歳から5歳まで保育園に預けられていました。3歳から新築の家に引っ越しして、幼稚園から小学校低学年までは祖父の家で、両親が迎えに来るまで過ごしていました。そのとき祖母が建築現場の手伝いをしていたみたい、という話は聞いているのですが、どういった建築現場での手伝いだったのか詳しく聞けていないです。高校卒業と同時に専門学校に行くために沖縄本島に引っ越して、現在、保育士として働いています。

26歳で腹膜中皮腫の診断とそれまでの経緯

私は15年前に、26歳のときに、悪性腹膜中皮腫として診断されました。それは保育士として働いて、ちょうど5年目のときでした。お腹がもう日が増すごとに大きくなっていって、保護者の方や職員の方たちからも、「おめでたですか?」とよく訊かれるようになって、自分では少し気にはなっていたのですが、もともと太っていたので、太っているからかな、と思って、軽い気持ちでそこまで悩むことはなかったです。しかし5月中旬あたりから、ちょっと胃のあたりが痛くなってきて、だんだん食欲も落ちてきて、食べないのに体重だけが増えていくのもおかしいなと思って、近くの胃腸科内科を受診することにしました。そこの医者からも、保護者や職員と同じように「おめでたですか?」と訊かれて、「違います」ということで、今までの症状を医者のほうに伝えました。そうしたら、胃カメラだけではなく腹部エコーも追加して検査しました。腹部エコーのときに、医者が「何だ、これ」って、少し小さな声で言ったのを憶えていて、そのとき不安で、何があったのかなというのは憶えています。

検査の結果、ちょっと家族のほうに話したいということだったので、そのときは、何か見つかったのかな、何か悪いのがあったの、何だろう?とか思いながら、そこまで深刻には考えていませんでした。

ちょうどその日、姉の出産予定で、石垣島のほうから母も来ていたので、病院まで来てもらい、そのとき、医者からの説明が、「卵巣腫瘍の疑いで腹水がある」と言われたそうです。その日の夜に姉が破水したということで、総合病院のほうに行き、私もちょうどその日の夕方からは水を飲んでも嘔吐する、ちょっとものを口にするだけで嘔吐すると、すごく体調が悪化し、そのまま救急で診てもらい、姉と同じ病院に入院することになりました。

翌朝には姉は女の子を出産。そして私にとっては初めての姪っ子。とてもうれしかったです。しかし私には、病魔が迫っていました。

その日のうちに総合病院では診れないということで、琉球大学病院に転院しました。そこでは毎日のように検査をして、その一週間後に卵巣腫瘍の疑いで手術をしますということになり、手術では大量に腹水を抜いたそうです。

術後は吐き気も無く、食欲も少しずつ戻ってきました。今、思えば、たぶん腹水で胃が圧迫されて、食欲も無かったんだなと思います。

手術結果が出るまでは、この婦人科病棟で周囲の方々とすごく楽しく過ごすことができ、いろいろと励まされ、前向きにもなれました。

腹膜中皮腫の告知と抗がん剤治療

術後、二十日後ぐらいに結果が出て、そこで初めて腹膜の癌、悪性腹膜中皮腫と告げられました。聞いたこともない病名だったので、「簡単に言えば腹膜の癌です」と言われました。

入院して一ヶ月後、卵巣や子宮はとってもきれいだったので温存してあるが、腹膜の腫瘍は取ることができず、抗がん剤治療で小さくしていくことも話し合いました。婦人科病棟から内科病棟に移り、治療に向けていろいろと毎週のように検査をしました。癌と聞いてからは、毎日のように不安と絶望で日々泣いていました。そのたびに婦人科病棟で仲良くなっていた方々や、婦人科病棟で主治医だった先生方が、毎日のように励ましてくれて、すごく勇気づけられ、とてもうれしかったです。

また、検査が無い日には外出、外泊ができたので、姉の家で姪っ子と一緒に過ごすこともできました。

7月中旬には治療方針が決まり、点滴投与で、薬はジェムザールとシスプラチン、他、2種類、いろいろありましたが、まずこの1種類目を試してみて、もし効かないようであれば、もう1種類。もしこれも効かないようであれば、また1種類試していきましょうということが決まりました。

このジェムザールとシスプラチンでは、副作用として食欲低下、吐き気、脱毛、白血球低下や赤血球、血小板の低下などがあると説明されました。治療前にはセカンドオピニオンとして、国立がんセンターへも行ってきました。そこでもやはり病名は一緒で、緩和治療を勧められました。

沖縄に戻り、1ヶ月に1回の割合で治療を開始することになり、治療したときには一週間はムカムカ、吐き気、嘔吐の繰り返しで、すごくつらかったです。

しかしその後は徐々に副作用も落ち着いてくると食欲は戻り、また元気に動き回っていました。そして体調の良い日には外泊もできました。しかし4クール目ぐらいからは、徐々に白血球減少や貧血が出てきて外泊もできなくなり、また、咳がひどくなって間質性肺炎を気にして、抗がん剤治療を一ヶ月休んだこともありました。8クール目からは2ヶ月に1回の治療になり、家で過ごす時間も長くなり、気持ちにも余裕ができました。
 入退院を繰り返しながら1年9ヶ月で14クールをし、抗がん剤の副作用にも耐え、治療はいったん終了しました。

琉球大学病院で入院中に、主治医の先生から、静岡のガンセンター(当時)にいる米村先生の事を聞いていたので、腹膜中皮腫と診断されてちょうど3年後の平成18年11月に、米村先生を受診することにしました。

先生からは最初に比べて腫瘍も小さくなってきていて、腹水も急激にたまることも無いので、手術ができますよ、と言われました。

手術をするにあたって、お腹にポートを埋め込み、そのポートから腹腔内治療を勧められたので、左のお腹にポートを埋め込んで、そのまま沖縄に戻ることにしました。

その後は主治医の先生と米村先生とは、手術前の治療に関して電話やメールでやりとりをしていただき、手術は年明けの3月に決まり、それまでは腹腔内のポートから直接、抗がん剤治療を5回しました。

また、点滴の針を刺す血管がちょっと狭くなってきているということで、CVポートを左鎖骨下に埋め込み手術もしました。

腹膜中皮腫の手術

翌年、平成19年3月、30歳のときに、岸和田徳州会病院で、米村先生による手術を受けました。手術前日の説明では、卵巣・子宮、全摘。大腸の一部を取り、人工肛門になることが告げられました。卵巣・子宮全摘というのは、一生子供が産めない体になるということです。私はすごい子供が大好きで保育士になったので、やっぱり自分の子供を産みたいという夢はありました。でも手術をすれば、その夢もかなわなくなる。命を取るか、将来を取るかと考えた場合、やっぱりどうしても生きていたいということで、手術を決行し、そのときは悔しくて悔しくて、思い出すだけでも今でも涙が出てきます。

手術当日、腹腔内ポートやCVポートから点滴され、手術室へ。計7ヶ所ぐらい切除されました。手術時間は7時間もかかりました。翌日、目が覚めたときには、自分の体にいっぱい刺さっていて、ベッドの周りにはたくさんの袋がぶら下がっていたのでびっくりしました。そしてまたストマーへのとまどいもありました。

手術後の治療は、最低でも抗がん剤治療を5クールすることになり、ジェムザールとシスプラチンで、手術前より量を減らして5クールを受け、治療はいったん終了し、経過観察となりました。ストマー生活は約3年間、すごい大変な日々でした。

平成22年、33歳のときにストマーを閉じ、やっとのことでこの石垣の地元で幼稚園教諭として仕事に復帰することになりました。

中皮腫患者として仕事復帰と再発

平成28年、38歳のときに、沖縄本島に引っ越し、また保育士として保育園に復職することもできました。

毎年、1年に1回、PET検査。そして月に1回、血液検査も受けてきました。仕事や私生活も順調で、このまま良くなってくれたらいいな、と思っていました。

 そんな矢先、1回目の手術から9年後の平成28年7月、39歳のときにPET検査で「異常あり」と言われました。前と違ってどこも痛くないし、食欲もあるのに、なぜ?まさか?間違いであってくれ、と、少し望みは持ちました。9月には腹部造影CTを受け、結果はやはり再発を確認したとのことです。すぐに主治医が米村先生と連絡をとっていただき、岸和田徳州会病院に行き、米村先生の診察を受けました。すぐに画像を見た先生は、「もうこれは再発ですね」と言われました。もう頭には、あの辛い手術、治療が思い浮かんで、すごくショックで、せっかく保育園にやっとまた就職できたのにという悔しい思いでした。

すぐに治療したほうがいいということで、今度は内服薬の抗がん剤TS1を開始。そして11月から点滴でシスプラチンとドセタキセルという、ちょっと違う抗がん剤を1ヶ月に1回、5クールをし、平成29年40歳のときに、岸和田徳州会病院で2回目の手術をしました。中皮腫と診断されて13年目でした。

2回目の手術でも、いろいろな臓器を摘出しました。しかし2回目の再発の手術では、腫瘍が腹膜やいろんな臓器に30、ちっちゃい腫瘍が30ヶ所ぐらい散らばっているということで、腫瘍を全部取り除くことはできず、まだちっちゃいのが3ヶ所残っています。

1ヶ月に1回の抗がん剤治療を続け、1クールでは入院し、白血球の数値や血小板などを見ましたが、特に異常がなかったので、2クール目からは外来で受けています。先週でちょうど30クールを終えてきました。先週の外来のときに、主治医に、ちょっと提案で、今、1ヶ月に1回の治療をしているのですが、これを2ヶ月に1回、3ヶ月に1回、できますか?と質問したところ、うーん、とすごい悩んでて、「まだ腫瘍自体がある以上、続けたほうがいいとは思います」と言われて、でも15年生きてきてて、誰もまだこういうデータが無いので、治療をして良くなるというのもわからないし、そこでもし3ヶ月に1回、治療を延ばしたところで悪くなるというのも誰もわかりません。なので、これ、試してみてもいいし、それはもう判断を任せます、と言われました。

「なんくるないさ」の精神で中皮腫と向き合う

中皮腫と診断されて、同じ日に姪っ子が生まれ、今、保育士として子供に接することによって、毎日のように不安、絶望で泣いていた日々も少しずつ克服できたのかなと思っています。今はすごい生きることの幸せを感じています。

沖縄では「なんくるないさ」という言葉があります。「どうにかなる」という意味です。生きていたらどうにかなるんです。私は病気になってたくさんの方々と出会いました。そしてたくさんの方々とご縁があり、今もこうしてここにいます。病気にならなかったらまた違った人生を歩んでいたと思います。今は小さなことでもすごく幸せを感じています。がんばっていれば仕事にも復帰しました。そして姪っ子や甥っ子の成長も見守りたい。そして愛犬とこれからもずっと暮らしていきたいな、という、こんな小さなことですけれども、これだけでもすごく幸せです。

これからも「なんくるないさ」という精神で前向きでがんばっていきたいと思います。
本日は最後までありがとうございました。