岡田伸吾さん講演『胸膜中皮腫発症15年-無治療で生きる』
岡田伸吾さん講演『胸膜中皮腫発症15年-無治療で生きる』
中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会「新潟支部」
(2019年8月31日・クロスパル新潟)
目次
胸膜中皮腫発症から15年
50歳で胸膜中皮腫を発症して、14年と8ヶ月になります。今月11日にYさんが亡くなったんですけども、同じ市民病院で、ステージ4ということで時間を過ごしてきたんですが、「前向きに」ということを話しながら時間をすごしてきたんですが、残念ですけど亡くなりました。
同じ病気で、私は無治療なんですが、片方は生きている、片方は亡くなっている、という現実の厳しさを知りました。片方は無治療で、進む人は病気が進むと。これはいったいなんだろうかと一生懸命考えましたが、これも一人ひとりの人生なんだと受け入れることしかできませんでした。
胸膜中皮腫の初期症状
最初に、咳が止まらないということで近所にある内科のF医院で診てもらったんですけど、まずレントゲンを撮りましょうということで、撮ったらすぐに呼ばれました。先生の顔が引きつっていたので、なぜかと思ってレントゲンをみると、片側の肺、左側が半分真っ白だったので、「すぐに大きな病院を紹介しますから」ということでした。いくつかの大きな病院を紹介されて、いくつかの選択肢を頂いたのは本当にありがたかったです。
まず、近所のA病院に紹介状をもらって行ったのですが、笑顔で先生が待っていてくれました。レントゲンを撮ってひとこと言われたのが、「胸水を取って、水の中にがん細胞が濁っていたら厳しいものになります」と最初に言われました。すごいショックだったのでよく覚えています。これも仕様がないのかなと思い、土日を挟んで2日後くらいに入院したのですが、そのあいだに水が一気に増えていって、入院当日はほとんど呼吸ができないような状況でした。
ものすごく苦しくて、死ぬのは仕方ないけど、苦しいのは取ってくれという状況になりました。ギリギリ間に合ったのかという状況で入院してきたんですが、レントゲンとCTを撮ってみるとほとんど肺の形がないくらい潰れていました。この状態では生きていくのは無理だろうと思ったのを覚えています。ただ、そのとき先生は水を注射器で抜いたんですが、綺麗な水で透き通っていたんです。それをじーっと見ていたのを覚えています。水にがん細胞はありませんでしたが、間違いなく悪性の腫瘍ですと言われ、その後から造影剤を入れての全身のCT検査となりました。最終的に中皮腫と判断できないので、生検をしました。結果が出るまで2週間くらいあったのですが、家に帰って片付けをしないとだめかと思ったのを覚えています。退院する時に先生に言われたのは、対処療法と、今度入院するときは「3ヶ月です」というものでした。
2週間後に行ってみると、「何が起きたんでしょうね」という状況になっていました。水が全然増えていなかったんですね。一気に増えたときのあの苦しさも亡くなっていたし、ドレーンで対処する方法にしても厳しいものがあるが、様子をみていきましょうとなりました。
中皮腫で余命3ヶ月の宣告
2週間おき、3週間おきと診察の間隔が伸びていきました。ただ、半年くらいしたら反対の肺からも水がたまってきて、秋くらいには両肺の水の量が同じくらいになりました。それから止まって、また状態をみていくということになったのですが、翌年、アスベスト救済法ができたということで、新聞に中皮腫の方は国の方で費用を出しますと出ていたので、保健所で手続きをしたのを覚えています。もらった資料の中に病気のことが書いてあって、発症した人は余命3ヶ月、長くて半年ということが書いてあったんです。
先生に確認すると「そのとおりです」と。あとどれだけ時間があるのか先生に確認すると、「3年」ということを聞かされました。その後も状態をみていく日が続いたのですが、その年の半ばくらいにその先生は突然いなくなりました。別の病院に行ったということで、少し残念ではあったのですが、次の先生に任せるしかないかと思いました。次の先生は病理の話を詳しくしてくれました。当時、外国で使っている抗がん剤を取り寄せてくれると言ってくれたのですが、身体のことを考えると、アレルギー体質なので無理なのかなと思ってとりあえずやめておきました。経過観察というか、状態をみていく選択を選びました。その先生も1年ほどでまた代わって、引き続き状態をみていくことになりました。3人目の先生が一番長かったのですが、その先生は痛み止めを飲んでやりたいことをやっていった方がいですよと言ってくれるのですが、検査してもCTなどの詳しい内容を教えてもらえなかったんです。そういう日が長く続いて、ものすごいストレスになって病院を代えました。
無治療で胸膜中皮腫の診断から5年
B病院では、そういった悩みを直球で全部伝えたんですが、担当の先生がまっすぐに答えてくれたのが、「無治療で5年以上生きている人はいません。見たことがありません」という言葉が返ってきました。
いくつかの抗がん剤を使うことや、痛み止めを試してみたらどうですかと言われて、試してみたんですが、目は回るし、吐きっぱなしという状態で、これは無理だと判断して使用をやめました。それで、このまま行こうという腹を決められたのですが、その時点で仏教の信仰を持っていたので、すべてお釈迦様に任せようと切り替えていました。無治療でいこうと。その後、3年半くらい状態をみていて、ほとんど変化なく、不思議なんですが、現在につながっています。今の先生は「特例中の特例」という表現を使いましたけども、痛みを言っても、「無いはずだがなぁ」とか、痛み止めくれますかと言っても、「市販の薬を飲んでください」と言われたので、医師の対応について病院とも話をすることもありました。
胸膜中皮腫療養と代替療法
発症当時、問題になったのが、食事を全く受け付けなくなったということがありました。そんな時期、湯治に行きましたら売店で熟成にんにくが販売されていて抗がんに効きます、免疫力を上げます、食欲を上げます、とあったので食べるようになっています。それから10年以上食べています。体調を整えるという意味もあります。身体を温めるというのが良いとわかりましたので、温泉には頻繁に行っています。
また、発症から4、5年経過してから、身体が動かせないということがあって、どんどん筋力が落ちていくことがありました。そうすると、まっすぐに座っていても一方の肩が下がるとか、身体の軸が固定できない状態になったので、病院に行って検査をすると股関節の状態とか筋肉のバランスが崩れているということで、できるだけ歩くようにしてくださいと言われました。家の中でできるストレッチを教わって、今もそれは実践しています。今は1日に1時間以上歩くことを日課にしていて、まともに歩けるようになるのに3年以上かかりました。今日、こうやって普通に座っていられるのも、歩くことをしてきたからだというのを実感しています。
胸膜中皮腫発症後のまわりの支援
最初の先生が、本当に目配りできる人で、いくつかの病院を選択肢として紹介してくれました。二人目の先生は、「温泉好きなんで行ってもいいですか?入ってはならないという注意に『悪性腫瘍』と書いてあるんですが」と聞くと、「行っていいですよ。どうぞ」と言ってくれる先生でした。あまり病気の説明がなく、ずーっと状態を見守っていてくれたという先生でした。労災の申請にしても、最初に保健所に行ったときに担当の女性の方が「労災の方が手厚いですよ」という話を聞かせてくれました。その日のうちに手続きに行っています。障害国民年金でもそうなんですが、年金事務所の方に手続きを色々とやってもらいました。色んな人に助けられてやってきたという思いがあります。それが無かったら、ちょっとでも道を外れたら、かなり厳しかったのかな、と思っています。また、病院によっても、担当する医師によっても変わってくるんだということを実感しています。
現在、信仰を持っていますが、仏教というのはお釈迦様が病気になったときに、それをどう受け入れるか、というのを教えてくれていますので、私自身は延命したいという気持ちは持っていません。そのまま受け止めようと。それが支えになっているのかと思っています。患者、家族が互いに支え、支え合っています。色々な思いががありますが、感謝の気持ちを伝えていければと思っています。
※掲載の内容は一個人の経験です。文中に出てくる療養方法、信仰について推奨しているものではありません。治療・療養方針については主治医の先生と十分にご相談ください。