悪性腹膜中皮腫になって思うこと

岐阜県 平田勝久

目次

腹膜中皮腫発症の初期症状

私は鋼構造物を専門とする設計事務所に勤務し、CAD(コンピューター支援設計)にて図面を書く仕事に従事していました。2年前の2018年6月、休日には大好きな鮎釣りに解禁したばかりの郡上長良川に向けて車を走らせていました。

ルンルン気分で運転していたところ、左側の脇腹辺りに痛みを感じました。筋トレ仲間と週2回ベンチプレスなどのハードトレーニングを行っていたので、「又筋肉痛だ~」とあまり気にもとめずいました。これが最初の自覚症状でした。

数日経っても痛みが治まらず何かおかしいなと思い会社近くの整形外科を受診しました。レントゲン検査では特に異常が見つからずドクターから「念のためCT検査をしてみましょう」と言われました。帰宅途中の電車の中で脇腹の痛みについてスマホで検索すると、内臓からくる痛み云々と書いてありました。「何か嫌な予感...」そう思いました。

7月11日にCTを撮り、診察室に呼ばれるとドクターから「腹水と膵頭部に異常がある」と告げられました。

「紹介状を書くから明日にでも大きな病院の消化器内科を受診しなさい」と言われ、私の頭の中は混乱状態に陥りました。「これはがんの中でも一番ヤバいすい臓がんかも...」。私の頭の中は真っ白になりました。すい臓がんがたちの悪いがんと聞いていたので、「余命半年か!」と思いました。

「もう終わった」。いきなり奈落の底に落ちたと思いました。「家族のこと、仕事のこと、どうするどうする…」。頭が混乱して、いまし正常な判断ができない状態でした。家に帰り妻に落ち込んだ状態で話すと、「お父さん、まだ確定した訳じゃ無いじゃない。落ち込むのは早いわよ」と慰め、私を明るく励ましてくれました。「この人と結婚して良かった!」と改めて思いました。

翌日、紹介状を持って大垣市民病院の消化器内科を受診しました。血液検査、エコー検査、CT検査、腹水検査、胃カメラなどを行い、この結果が出たのが7月31日でした。診断名は「悪性腹膜中皮腫の疑い」でした。聞いたことの無い病名に、また頭の中が混乱していきました。ドクターから「当病院では症例が無いので治療は難しい」と言われ、愛知県がんセンターに行くことになりました。

その3年ほど以前、スキルスがんの疑いがあると言われたことがあり、その時は死を覚悟しましたが検査でなんでもなかったことがありました。。今回もまだ確定したわけでは無いと一縷の望みを持って帰宅しましたが、「これは腹をくくる時が来たかな」と不安が心の中を支配していきました。妻もさすがにショックを受け、しばらく下を向いて黙っていました。いままでに見たことのないような悲しい顔をしてい浮かべました。その時の表情は今も忘れることができません。子供たちには病名が確定した段階で話をしようと思いましたが、社会人になっていた長男なら受け止めてくれるであろうと思い話しました。突然のことに長男も口を結び、厳しい表情をしていました辛そうでした。

ステージ4相当の腹膜中皮腫の診断

8月2日、妻、長男と共に愛知県がんセンターの薬物療法部を受診しました。抗がん剤治療を専門とするドクターの話では、「やはり悪性腹膜中皮腫の確率が高い」とのことでした。

「希少がんで、症状は進行しており、今の段階でははっきりと言えないがステージ4相当で標準治療が無く手術は無理です」との診断でした。

お腹が張ってきたのが自分でも分かり、「後1年持つのか」と思いました。ドクターの気遣いかもしれませんが、その時は余命の話はされませんでした。

話が終わった後、妻と長男は明るく「父さん家族みんなで応援するから抗がん剤治療頑張りましょう」と励ましてくれました。涙が出そうでした。  

8月22日、腹腔鏡下生検手術のため消化器外科に入院しました。病理検査の結果、9月5日、『悪性腹膜中皮腫』と確定しました。

長女と次男には、その夜話をしました。2人の結婚式、孫の顔を見たいと思いながらその話はせず、病気のことだけを伝えました。平均余命1年であまり治療がないと伝えると絶句していました。言うほうも聞くほうも辛かったです。

当時、代表を務めている会社に関する悩みを抱えていました。以前から私の病気に関しては社員に伝えていましたが、不在の間のいざ入院治療となると色々な問題が起こりました。資金繰りや売上の減少、社内の不況和音等々、この難局をどう乗り越えていくか。答えは見つかりませんでした。社員の生活を考え、人生の中で一番辛い体験でしたが、すべてを伝えてを社員に託し、入院治療に入りました。

腹膜中皮腫の治療を開始

すぐに抗がん剤治療が始まりました。はアリムタ+アバスチン+シスプラチンの混合で想像以上の副作用が襲ってきました。酷い怠さ、食事はもちろん水を飲むだけでも吐き気がしました。抗がん剤治療をしている人はいっぱいいるし、みんな思いをして頑張っていると思いますが、やはり辛さは格別でした。

この治療を6クール行ったところ、腹水は減少したので、アリムタの単剤に変更しました。

入院中も仕事の報告を受け、6クール終わってから週1度会社に顔を出すようになりまし。入院治療中は、社員に大変な苦労をかけましたが、何とかみんなが力を合わせ難局を乗り切ってくれました。このことは今でも忘れられません会社を守ってくれたことに感謝しました。。

がんと向き合うということは、乗り越えていかねばならない様々な難局があることを、この歳になって痛切に感じました。

あと2年で65歳となり、で会社を退職したら、好きな鮎釣り、登山等やりたい事がいっぱいあったのに、みんな崩れていきました。今までやれていたことが出来ないことに直面し、涙しました。

誰も責められないやり場のない気持ちでいましたが、ふと、「神様が決めていたことなのかな」と思うと、心が少し楽になりました。

「これが俺の人生。いつまで生きられるかは神のみぞ知る」と思いあらがうのをやめました。

この気持ちや治療のつらさは家族にも理解してもらうのは難しく、希少がんゆえ相談する人もなく、同じ境遇の人の話を聞きたいと思っていました。

腹膜中皮腫の原因は石筆で労災認定

そんな思いで最初にたどりついたのが中皮腫・アスベスト疾患患者と家族の会でした。連絡を入れると、名古屋労災職病業研究会の成田さんと知り合えました。

ここで腹膜中皮腫はアスベストが原因で発症することがあるという衝撃的事実を知りました。記憶を辿ると、23歳の時の出向先で、石筆を使用していたことが分かりました。成田さんに労災申請の申立書の書類作成などお世話になり、2019年11月に労災認定が下りました。この出会いには感謝しかありません。

10月19日に『中皮腫キャラバン隊in岐阜』が開催されることを聞き、妻と参加しました。会場では患者さんたちが元気で明るく、ご自身の体験談を話されているのを拝見し、とてもびっくりしました。とても難治性希少がんを患っているとは思えませんでした。

この頃、アリムタ単剤の効果があまり良くなく、腹水が増加していきました。主治医に次の治療について聞くと、「平田さん違う薬をやりましょう」と力強く言われました。

話を聞きながらも、又あの辛い副作用があるのかと、頭は混乱していきました。帰って妻に報告すると、「神様に効果がありますようにお願いに行きましょう」と言われ、最後の神頼みのつもりで、近くの神社をお参りしました。

希望を持ってあきらめない

栗田英司さんが書かれた『もはやこれまで』を見つけ、購入したところ、表紙に「ここには希望がある」と書かれていました。それを見て「よし希望をもってあきらめませんよ」と心に誓いました。

ありがたいことに違う薬の効果で、腹水も無くなりました。

暫くして、『中皮腫ZOOMサロン』の存在を知り2019年3月に参加しました。正直、こんなにたくさんの患者さんがいることに驚きました。希少がんゆえの情報の少なさに患者さんとの接点が全く無かったのでありがたかったです。サロンに参加させていただき、自分の思いやか皆さんの思いを共有することができ、元気をもらえました。

2019年6月には、岐阜大学医学部に検体登録をしました。自分の体を提供することによって、少しでも医学研究に役立つことができればと思いました。そして医師を目指す若者が一人でも中皮腫と向き合ってくれることを願います。

人生最後のご奉公です。同年10月に岐阜大学医学部の解剖体慰霊祭があり参加しました。この時、最後に医学生全員が検体した家族を見送るのですが「医学生頑張れよ!」と思いました。

いまは2週間に1回オプジーボの治療を受けています。3日間は副作用でつらいですが、それから少しずつ元気になっていきます。釣りに行けないのが悲しいです。車を転がし渓流を見に行ったり、水の音を聞きながら河原で時間を過ごすと落ちつきます。釣っている人を見て話しかけ、釣っている疑似体験をして過ごしています。