その時栗田英司が考えた〜「もはやこれまで」(2016年5月25日)

下記の文章は、2019年6月に他界した栗田英司さんが、2016年5月25日に執筆された文章です。腹膜中皮腫で19年以上の療養をされた栗田英司さんの中皮腫との向き合い方は、現在療養中の患者さんのご参考になることもあるかと考え掲載します。

2016年4月18日静岡県の総合病院、外科外来。担当医はCT画像を見ながら「体調はどう?」と聞いてきた。

本人:「体調はいいですよ、元気です」

外科医:「体調と相関関係がないんだね・・・6ヶ月前にはなかったんだけど、肝臓内部に3cmが7個と肺に1個、腫瘍あるんだよ・・・手術による切除は物理的に無理だね、栗田さんはどうしたい?」

本人:「もう何もしなくていいです」

外科医:「抗がん剤治療してみようよ」

本人:「どうせ、効く薬ないんでしょ、やらなくていいです。」

腹膜中皮腫の他臓器への転移かぁ・・・腹膜中皮腫にはステージ判定はないが、一般的にはステージⅣ「末期がん」だ。『もはや、これまで』と思った。

腹膜中皮腫の病歴 

1999年8月会社の健康診断の胃部レントゲン(バリウム検査)にて腹部に影が認められ、再検査を経て、1999年12月実家のある静岡県の総合病院で手術をした。最大径5cm~最小径あずき豆程度、合計約50個の腫瘍を切除した。小さな腫瘍は一つ一つ取ることが困難だったため、腹膜ごと約2kg切除した。腹腔内に抗がん剤シスプラチンを撒かれて、手術後はだるい、気持ち悪い、痛いと本当につらかった。

1999年12月24日 腹膜中皮腫と診断された。当時、腹膜中皮腫の症例が少なくそのデータを基に、「余命1年」と伝えられた。33歳の時、1度目の「もはや、これまで」を経験した。

退院後、腹部に埋め込んだカテーテルから抗がん剤シスプラチンを腹腔内に直接注入する治療を開始したが、副作用に嫌気が差し、1回でやめてしまった。

時は流れ、2004年4月腹膜再発腫瘍摘出手術、2007年12月腹膜再発腫瘍摘出手術、2014年12月腹膜再発腫瘍摘出手術、肝左葉外側区転移切除(握りこぶし程度肝臓切除)合計4回の手術、16年6ヶ月が経過した。

抗がん剤治療という選択肢

人生2度目の『もはや、これまで』八方塞がりの中、ふと1ヶ月前のことを思い出した。2016年3月患者会の呼びかけで、腹膜中皮腫の患者5名+関係者で集まりを持った。そのうち3名が、手術未経験で抗がん剤治療をしていた。

本人:「先生、セカンドオピニオンしたいので紹介状、ひまわり診療所でお願いします。」

外科医:「それならうちの腫瘍内科で話を聞いてから、セカンドオピニオン行ったらいいね」

その日のうちに、腫瘍内科の先生の説明を受けた。アリムタ+シスプラチンによる治療で、治療目標は根治ではなく、現状維持もしくは進行を遅らせること。期間は、3週に1度(4~5日入院)、最低でも6回行うとのこと(約4ヶ月)。副作用は、etc...。特に肝臓腫瘍の成長スピードが速いから一刻の猶予もないと、即決を求めてくる。放っておけば、数ヶ月、1年というのも覚悟したほうがいいと…切羽詰った感がある。

「1ヵ月後、5月16日に返事します」と言った。それしか言いようがなかった。

治療方針を模索する

静岡県の病院から出て、千葉県の家まで車を運転しながら、治療方針を決めないとなぁ考えた。

4月24日に神奈川支部主催の「胸膜中皮腫と肺がんに関するホットな話題」を聴講した。昼食で講演者山口宇部病院外科医、岡部先生と話ができ、自分の現状について説明し、抗がん剤治療について助言をもらった。

そこで患者会の横浜のKさんと再会した。胸膜中皮腫患者だが腹膜に浸潤したため、アリムタ+シスプラチン治療をしているとのことで、情報を提供してもらった。

4月28日に関東支部で腹膜中皮腫患者の埼玉のYさんと面談をセッティングしていただき、抗がん剤治療の経験について情報を提供してもらった。

5月12日にひまわり診療所名取先生にセカンドオピニオンをしてもらった。

そして、自分でも本やWebで抗がん剤治療について調べた。

腹膜中皮腫の抗がん剤治療には、標準治療はない。アリムタ+シスプラチンは胸膜中皮腫の標準治療であって、それに準じて行われてる。一定の効果はあり、データでは平均「数ヶ月程度」の延命効果が得られる。

治療中は副作用の影響で仕事は困難になり、私の場合は就労所得がなくなる(救済給付金のみ)。私は千葉県では単身生活をしている。副作用の影響で、静岡県との往来や千葉県における日常生活は困難なものになる。たぶん、静岡県の実家暮らしになるだろう。

最低6クール約4ヶ月実施し、効果があれば続行だ。いつまで続くのだろう?

今回の選択

この問題に正しい答えはない。結局、自分の決断だ。八方塞りを打開するのに、以下の言葉が背中を押し、自らの運命を引き受ける「覚悟」を決めた。

「誰が将来を見通せましょうか。(中略)私たちは何か行動を起こす場合、「将来」「幸福」ということにあまりにもこだわりすぎているようです。(中略)「よりよき生活」が訪れるかわからないが自分はこうしたいし、こういう流儀で生きてきたのだからこの道を採る。(中略)それで「不幸」になってもそれはやむをえぬということです。(中略)この自分の流儀と自分の欲望とが人々に自信を与えていたのです」(下線本人)(福田恒存「私の幸福論」より)

当然ながら抗がん剤治療の効果を期待したい。しかし、元気に自活できているこの状態を放棄する気にはならない。「ピンピンコロリ」が信条、流儀なのだ。

5月16日 抗がん剤治療を「すぐにはしない」と担当医に伝えた。3ヶ月後にCT検査をして再度判断することにした。自分の信条、流儀でこの3ヶ月間を過ごすことにした。